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小説/第7話

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第7話 雨の日の勉強会

第7話 雨の日の勉強会のイメージイラスト

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シーン1 雨の朝の社内告知

 七月四日。月曜日。

 梅雨入りから三週間が経って、もう何度目かの雨だった。窓ガラスに、細かい水滴が、横向きに、走っている。桜子のスニーカーの先は、駅から会社までの数分で、また少し、湿っていた。

 オフィスの社内Slackには、月曜の朝らしく、いくつかの告知が並んでいた。桜子は、お茶のキャップを開けながら、上から順に、目で追った。

[#announcements]
- 7/5(火) 12:00-12:50 ランチ勉強会
  「障害対応LT会」(発表: 山下遥)
  会議室: 401, ランチ持ち込みOK
- 7/7(木) 19:30-21:30 社外勉強会
  「若手LT in Shibuya: 失敗の使い方」(connpass経由・有志参加)
  渋谷の貸会議室。connpass のリンク: ...

 桜子は、二件とも、行きます、と返事をしようとして、一拍、止まった。

 社外勉強会、というものに、桜子は、まだ一度も行ったことがなかった。学生時代、大学のゼミの内輪の発表会には、もちろん出ていた。けれど、社外、しかも、夜、しかも、初対面の他社の若手たち、というのは、別の生き物だった。

 通路の向こうから、コーヒー片手の鈴木が、桜子の机のそばに、軽く、寄ってきた。

「桜子さん、今週、勉強会の告知、見た?」

「はい、見ました」

「両方、行ってきていいよ」

「両方、ですか。社外のほうも?」

「うん、両方。社内のは、業務の延長。社外のは、半分、業務、半分、自分の時間。社外で見たもののうち、業務に関係ある部分だけ、戻ってきたら共有してくれれば、それで十分」

「……ありがとうございます」

「無理しないで。雨だしね」

 鈴木は、いつもの穏やかな声色のまま、自分のコーヒーカップを、軽く挙げて、自分の席に戻っていった。

 桜子は、両方の告知に、参加します のリアクションスタンプを、ひとつずつ、押した。


Part A

シーン2 社内ランチ勉強会

 翌日、火曜日。十二時すぎ。

 会議室401。プロジェクターが、白い壁に、スライドの一枚目を映していた。

障害対応LT会
- 山下遥
- 2022/07/05

 桜子は、コンビニのおにぎりを片手に、後ろから二列目の席についた。隣に、翔太がいた。翔太は、サンドイッチと、アイスコーヒーと、ノートPCを、机の上に綺麗に並べていた。

 遥が、マウスを、いったんスライドの上で、止めた。

「今日は、五分のLTを二本、やります。一本目は、新人さん向けに、わたしが、新人時代の障害から学んだことを、ひとつだけ、話します」

 遥の声は、屋内の会議室のせいか、いつもより、ほんの少しだけ、響いた。

 二枚目のスライドのタイトルは、こうだった。

「ロールバックがない変更は、出してはいけない」
を、わたしが、言うようになるまで

 桜子は、あ、と、口の中で、息を、止めた。

 遥は、つづけた。

「これは、いまの会社じゃなくて、前職の話です。今日は、会社名や細かい数字は、伏せます」

 ここで、遥は、桜子の方をちらりと見た。「あとで、桜子さんに、もう一度、別の場所で、ちゃんと話します」、という、その一秒くらいの目だった。

「テストもステージングも緑、レビューも通っていた。深夜の本番で、ある条件が重なって、不整合が起きた。わたしは、戻したつもりで、戻し切れていなかった」

 会議室の中で、何人かが、軽く、うなずいた。

「影響は、最終的に、会社として対応しきりました。でも、そのとき、わたしは、もう、自分のなかの、ある原則を、決めました。ロールバックがない変更は、出してはいけない」

 スライドが、次に、進んだ。

- ロールバック手順は、PRと同じ列で書く
- 「コードと一緒に、戻し方を持ってくる」
- 戻し方を、出した本人が、自分の手で書いた状態で出す

 桜子は、ノートに、その三行を、書き写した。書きながら、桜子の頭の中で、夏の屋上のベンチの、まだ来ていない、いつかの自分が、薄く、浮かんだ。

 LTは、五分でちょうど終わった。質疑応答は、二件。誰かの拍手、何人かのうなずき。それだけだった。けれど、桜子は、しばらく、ノートのその三行から、目が離せなかった。


シーン3 翔太のメモの取り方

 LT会のあと、桜子は、自分の席へ戻る通路で、翔太と、半歩、足が並んだ。

「中村くん、メモ、わたしより、すごく、構造化されてるよね」

 桜子は、思わず、口にしてしまった。会議室の中で、翔太のノートPCの画面が、少しだけ見えていた。アウトラインエディタに、見出しが、こう並んでいた。

# 山下さんLT 障害対応の原則

## 結論
- ロールバックがない変更は出さない

## 根拠 (前職の体験)
- テスト/ステージング/レビュー全部緑でも、不整合は起きうる
- 戻し方が用意されていないと、戻すほど壊れる

## 適用
- PRに「Rollback手順」セクションを含める
- 「戻し方」をコードと一緒に書く

## 自分への適用
- 自分の#118 (JOIN追加) PRでも同様の項を入れて出す

 翔太は、肩越しに桜子の方を向いて、軽く、笑った。

「ああ、これ。僕の癖。学生時代から、ノートは、ずっと、見出しを切らないと、頭に入らないんだよね」

「すごい」

「望月さんは、どんな書き方?」

 桜子は、自分のメモ帳を、ためらいながら、開いた。翔太は、覗き込まずに、ただ、待ってくれた。

 桜子のページには、こう書いてあった。

2022/07/05 山下さんLT メモ

- 「ロールバックがない変更は、出してはいけない」
- 前職の話。深夜の決済の、一行の設定変更。
- 戻したつもりで、戻し切れていなかった夜。
- ロールバック手順は、PRと同じ列で書く
- 「コードと一緒に、戻し方を持ってくる」
- 出した本人が、自分の手で、書いた状態で出す

(山下さんの声、いつもより、ほんの少しだけ響いていた。
桜子のノートに、ペン先が、少し止まった。)

「望月さん、エピソードまで書いてるんだ」

「うん。なんか、結論だけ書いても、忘れちゃう気がして」

「いや、これ、僕、書けないよ」

 翔太の言葉は、皮肉でも、社交辞令でもなかった。短く、ただ、事実だけを言っていた。

 桜子は、メモ帳を、そっと、閉じた。

 (書ける。違う、書き方が)

 その四文字を、桜子は、自分のなかで、まだ、ちゃんと信じることはできなかった。けれど、信じきれない、というところまでは、来ていた。


Part B

シーン4 雨の渋谷の貸会議室

 木曜日。十九時前。

 会社を出ると、雨は、夕方になってから、また、強くなっていた。傘を差していても、足首から下が、もう、湿っている。桜子と遥は、駅まで、ほとんど無言で歩いた。

 渋谷駅の地下から地上に出ると、人と傘の波が、いつもの倍だった。貸会議室は、駅から五分の雑居ビルの六階。エレベーターを降りると、入口に、参加者用の名札が並んでいた。

若手LT in Shibuya: 失敗の使い方
- 19:30-20:30 LT (5本)
- 20:30-21:30 軽い懇親会

 桜子は、自分の名札を取った。「望月桜子 / テックスター株式会社 / 1年目」。書く欄に、自分の所属を書くのは、これが、たぶん、人生で初めてだった。

 会場には、もう、二十人ほどの若手が集まっていた。スーツの人もいれば、Tシャツの人もいた。スマホで slack を覗いている人、PCを開いている人。みんな、それぞれの会社で、それぞれの一日を終えて、ここに集まっていた。

 桜子は、入口の隅で、ノートPCも開かず、メモ帳だけを片手に、立っていた。

 隣に、遥が、ペットボトルのお茶を片手に、立っていた。

「桜子さん、今日は、聞くだけでいい。LTの内容を、自分の言葉に変換することだけ、考えて」

「はい」

「あと、最後の懇親会で、誰か一人にだけ、話しかけて、何か一言、聞いてみよう」

「……ハードル、高いです」

「うん、高い。でも、一人でいい」

 遥は、それだけ言って、自分も、席のほうへ、ゆっくりと歩いていった。


シーン5 他社の若手の登壇

 LTは、定刻きっかりに始まった。

 一人目。入社三年目のエンジニア。タイトルは、「環境構築だけで一日終わった日のこと」。彼は、入社初日、Pythonのバージョンが合わず、半日、画面を赤いログで埋めていた話を、楽しそうに、笑いながら話した。会場が、軽く、笑った。桜子も、思わず、笑った。四月一日の、自分の初出社の日が、頭の中で、薄く、重なった。

 二人目。入社一年目の、女性エンジニア。タイトルは、「初めての本番障害で、何もできなかった夜のこと」。

 桜子は、彼女が、スライドの一枚目を、出した瞬間、ノートを握る指に、ほんの少しだけ、力が入ったことに、気づいた。

「四月に入社して、五月の終わり、初めての本番障害がありました。先輩が三人、Slackで、ものすごい速さで会話していました。わたしは、画面の前で、ただ、見ていました。何も、書けなかった。何も、提案できなかった。何も、できなかった」

 会場が、しんとした。

「そのあと、家に帰って、わたしは、メモ帳を、開きました。書こうと思って。でも、書けない。何が起きたか、自分の言葉で、まとめられない。先輩のSlackの履歴を、何度も読み返して、それを、書き写すしかなかった」

 彼女は、スライドを、次に進めた。

- その日、書けなかったことを、書きました
- 「今日、わたしは、何もできなかった」
- 一行から始めました

「これが、わたしの、最初の障害メモでした。書いたら、ちょっとだけ、息ができました」

 桜子は、自分のメモ帳の、赤いエラーで詰まった日の障害報告ページの、学び:エラーは隠すより共有したほうが早い の一行を、頭の中で、もう一度、なぞった。

 二人目の登壇者は、最後に、こう言った。

「失敗の使い方は、いまも、よく分かりません。けれど、書く、というのが、入口ではあるみたいです。書くと、隠さなくて、よくなる。隠さなくていいから、次の現場で、もう一回、立てる」

 会場が、拍手をした。桜子の手も、自然に、動いていた。

 三人目。二年目の男性。「自分の遅さを、丁寧さ、と呼び換えてくれた上司の話」。

 彼は、入社後、自分の実装速度が、同期の中で一番遅かった、という話を、淡々と話した。途中、上司のひと言、「速さを評価する仕事と、丁寧さを評価する仕事は、違う仕事です」 という言葉が、スライドに、大きく出た。

 桜子は、そのスライドの一行を、メモ帳の、いちばん見つけやすい場所に、書き写した。


Part C

シーン6 懇親会の片隅で

 LTが終わって、軽い懇親会が始まった。会場の隅に、テーブルが二つ並べられて、ペットボトルの飲み物と、小さな袋菓子が、置かれていた。

 桜子は、しばらく、壁際で、ペットボトルのお茶を、両手で持っていた。話しかけよう、と決めていた相手は、二人目の登壇者の、彼女だった。

 桜子は、深く、息を吸って、半歩、踏み出した。

「すみません、あの、お話、聞かせていただいて」

 彼女は、振り返って、軽く、会釈した。名札には、別の会社の名前と、1年目 の字が、書いてあった。

「あ、はい。聞いていただいて、ありがとうございました」

「ひとつだけ、聞いてもいいですか」

「はい」

「あの夜の話、あとで、メモ帳に、書きましたか。ちゃんと、自分のメモ帳に、書きましたか」

 彼女は、ほんの一瞬、目を、丸くしてから、ふっと、笑った。

「書きました。書いたから、今日、人前で、話せました」

 桜子は、その答えを、聞いて、しばらく、息を、吐けなかった。

 彼女は、優しい声で、続けた。

「お名前、なんでしたっけ」

「望月、桜子です。テックスターの、一年目です」

「望月さんも、書いてるんですね」

「あ、はい、まだ、毎朝、五分だけ。続けたら、どうなるか、まだ、わかんないですけど」

「続けたら、たぶん、来年の今ごろ、ここで、話せます」

 彼女は、にっこり、笑った。

 桜子は、自分の鞄の上から、メモ帳を、ぴしゃ、と、軽く、押さえた。


Ending

シーン7 帰り道、傘の柄の冷たさ

 二十一時半。

 LT会が終わって、桜子と遥は、会場のビルを出て、渋谷駅に向かって歩いていた。雨は、もう、ほとんど叩きつけるくらいの強さに、なっていた。傘の柄が、思った以上に、冷たかった。

 駅まであと二分くらいの、信号で、桜子と遥は、雨の中で、信号待ちで、並んで立っていた。

 遥が、ぽつ、と、

「桜子さん、今日のうちで、一番、響いた話、どれだった」

「えっと」

「一人目の、環境構築の話?」

「あれは、四月一日の、わたしを、笑ってもらえて、嬉しかったです」

「二人目の、本番障害の話?」

「……二番目の人の、書いたから話せた、です」

 遥は、信号の青を、待ちながら、軽く、うなずいた。

「うん。書く方の桜子さん、で、いいよ」

「書く、方」

「翔太くんは、構造化する方。桜子さんは、書く方。両方、技術者の仕事です。今日、それを、桜子さんの目で、別の会社の若手にも、いる、って、見た。それで、十分」

 信号が、青に、変わった。

 桜子は、遥と並んで、横断歩道を、渡った。

 駅に着いたとき、桜子の傘の柄を、握る手は、まだ、冷たかったけれど、不思議と、夜の電車の中で、その冷たさは、長くは、残らなかった。

 帰宅後、桜子は、メモ帳を、開いた。

2022/07/07 新人日記

- 起きたこと:
  社内LT会 (山下さん)、社外LT会 (若手 in Shibuya)
- 覚えたこと:
  - 「ロールバックがない変更は、出してはいけない」
  - 「速さを評価する仕事と、丁寧さを評価する仕事は、違う仕事」
  - 書いたから、人前で、話せた
- つかえているところ:
  翔太のメモは、構造化される。わたしのメモは、エピソードまで書く。
  違いがある。同じノートには、ならない
- 明日の最初の一手:
  自分のメモ帳を、もう一度、最初から、ぱらぱら、めくる
- 今日の学び:
  比べる相手は、社内に一人だけ、じゃなくていい

 桜子は、ペンを置いて、メモ帳の、表紙の、半分はがれかけた猫のシールを、指で、軽く、押さえた。

 雨の音は、まだ、窓の外で、続いていた。