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Cold Open
シーン1 月曜の朝、空いた席
十二月二十六日。月曜日の朝。
仕事納めまで、あと、四営業日。
オフィスの窓の外、街路樹は、もう、ほとんど葉を落としていた。風は、出社のたびに、半歩、強くなっている。マフラーを巻いた人たちが、駅から会社へと、足早に流れていく。
桜子は、自分の席についた。
となりの席が、ふたつ、空いていた。
翔太は、先週の木曜から、別件のリリースが火を噴いて、その対応で、丸ごと、別チームのフロアに移っていた。早瀬は、契約上の年末休止で、二十六日からは、入っていない。年明けの一月十日から、再開予定だ。
桜子は、メモ帳の、月曜の朝のページを、開いた。
2022/12/26 (月)
- 起きたこと:
(まだ、朝)
- 覚えたこと:
(まだ、朝)
- つかえているところ:
自分の Issue が、先週末で 6件 残っている (#219, #236, #240 含む)
- 明日の最初の一手:
Runbook整備 (#219) の本文ドラフト着手書きながら、桜子は、明日の最初の一手 の欄に、#219 の他に、たぶん、もう一つくらい、書く必要があるかもしれない、と、感じていた。けれど、ペン先は、Runbook整備 (#219) の本文ドラフト着手 の一行で、止まっていた。
窓の外で、強い風が、街路樹の枝を、軽く、揺らした。
Part A
シーン2 三件の「引き受けます」
九時半、朝礼。
別チームのリーダー、長谷川さんが、Meetの画面の中で、軽く手を挙げた。
「うちのほう、#231: 営業向け年末資料の数字、抽出スクリプトのバグ が、一件、転がってまして、年末納期、明日の夕方なんですけど、誰か、空いてる人、いれば」
桜子は、半秒で、
「あ、わたし、見ます」
と、手を挙げてしまった。
言葉が、口から出てから、自分の中で、何かが、ことっと、引っ込む音が、した。けれど、もう、出してしまった。
「望月さん、ありがとう。あとで、Issueのリンク、Slackで送りますね」
長谷川さんは、軽く、頭を下げて、Meetの画面の中で、退出した。
朝礼の最後のほう、鈴木が、桜子に、
「桜子さん、もう一件、相談、いい?」
「はい」
「翔太くんの別件、年内に戻ってこられない見込みなんだけど、#226: 顧客向け年末メールテンプレ更新、年内納期で、誰かが、進めないと、まずい。もし、桜子さん、余裕あれば、引き取ってもらえる?」
「はい、引き取ります」
「無理しないで。本当に、無理だったら、断ってくれていい」
「大丈夫、です」
桜子は、自分の声が、大丈夫、です の、、 の前で、半拍、止まったことに、自分でも、ちゃんと、気づいた。
昼前、早瀬から、メールが届いた。
件名: 年末休止前のご連絡 (早瀬)
望月さん
おつかれさまです。早瀬です。
本日 12/26 から年末休止に入ります。
残った #220 (UI調整) は、年明け 1/10 復帰後で、
お客さま側にも、ご了承いただいております。
桜子さんから、年内に進めたい引き継ぎ要請があれば、
別途、対応可能ですので、お申し付けください。
良いお年をお迎えください。
早瀬桜子は、しばらく、その丁寧なメールを、読んでいた。
返信を、ゆっくり、書いた。
件名: Re: 年末休止前のご連絡 (早瀬)
早瀬さま
おつかれさまです。望月です。
ご連絡、ありがとうございます。
#220 については、先方納期との兼ね合いで、こちらで、年内に
進めておきますので、年明けは、ご対応いただかなくて大丈夫です。
良いお年をお迎えください。
望月送信ボタンを、押した。
押してから、桜子は、自分のメールを、もう一度、読み直した。
こちらで、年内に、進めておきますので。
書いた瞬間、自分のメモ帳の、月曜朝の 明日の最初の一手 の欄に、書ききれない一行が、もう、ひとつ、増えたことに、気づいた。
シーン3 メモ帳の欄が、足りない
火曜日。十二月二十七日。
桜子は、いつもどおり、駅前のカフェに、開店と同時に、入った。年末の朝のカフェは、いつもより、ほんの少しだけ、人が、まばらだった。
ブレンドを頼んで、メモ帳を、開いた。
火曜日のページの、明日の最初の一手 の欄に、桜子は、書きたい一手を、並べていった。
- 明日の最初の一手:
- #219 Runbook整備 (もとから自分のもの)
- #226 メールテンプレ更新 (翔太分、引き取り)
- #220 UI調整 (早瀬分、引き取り)
- #231 抽出スクリプトバグ (別チーム、引き取り)四つ、書いた瞬間、ページの、明日の最初の一手 の欄が、はみ出した。
桜子は、ページの端の余白に、#220 と #231 を、はみ出させて、書いた。
ペンの先が、書ききった瞬間、桜子は、自分の手の中で、何かが、ほんの少しだけ、軋んだ気がした。
メモ帳のフォーマットは、半年以上、日付 / 起きたこと / 覚えたこと / つかえているところ / 明日の最初の一手 の五行を、目安にしてきた。それが、桜子の側で、書ける範囲 の輪郭、として、機能していた。
その輪郭が、いま、はみ出している。
桜子は、はみ出した二行を、ペン先で、しばらく、見ていた。
ブレンドの湯気が、目の前で、うすく、立ち上っていた。
Part B
シーン4 遥の短い一言
水曜日。十二月二十八日。昼前。
桜子の集中は、明らかに、切れていた。
社内Slackの、桜子へのメンションへの返信が、いつもの三十分以内、から、二時間遅れに、なっていた。提出すべきコードのレビューも、桜子は、まだ、出せていない。#226 のメールテンプレ更新は、#220 のUI調整との、文言整合の確認で、また、止まっていた。#231 の抽出スクリプトのバグは、再現環境を作るところで、他チームのデータベースアクセス権限申請が必要、と、判明したばかりだった。
桜子の、ノートPCのキーボードに置いた指は、もう、何分か、動いていなかった。
通路を、コーヒーカップ片手の、遥が、通った。
遥は、桜子の机の横で、立ち止まらなかった。
ただ、通り過ぎながら、桜子の机のメモ帳の表紙の、半分はがれかけた猫のシールに、視線を、ほんの一瞬だけ、落とした。
そして、ささやくように、こう言って、通り過ぎていった。
「桜子さん、いま、何件、自分のIssueに、自分の名前、ある?」
桜子は、椅子の上で、ほんの少しだけ、姿勢を、変えた。
Issueボードを、開いた。
Assignee: mochizuki-sakurako で、フィルタする。
九件、あった。
桜子は、その「九」という、二桁手前の数字を、しばらく、見ていた。
#226 #220 #219 #231 ── 引き取り三件と、自分のもとからの一件。 #214 #215 #216 ── 千葉HF訪問のIssue三件 (まだ、自分の名前)。 #236 #240 ── 十二月頭の小リリース束の中で、まだ、Doneにしていない、桜子の名前のIssue二件。
九。
メモ帳の、月曜朝のページに、桜子は、6件 と、書いた。けれど、千葉HFの三件を、桜子は、自分のメモ帳の中で、別の枠 (観察メモのもの) に、勝手に、入れていた。
でも、Issueボードの中では、ぜんぶ、桜子の名前だった。
シーン5 鈴木の机の上の、自分用の三枚の紙

水曜日の午後。
桜子は、鈴木に、Slackで、
@mochizuki-sakurako: 鈴木さん、二十分だけ、お時間、いいですかと、書いた。送ってから、自分の声が、文字の上で、すこし、震えていることに、気づいた。
鈴木の返事は、すぐ来た。
@suzuki-kenichi: いいよ。15時から、僕の席で桜子は、A4の紙を、三枚、用意した。
十月の障害の翌朝、桜子の目の前で、鈴木が、自分の机の上に、並べていた、あの三枚。
桜子は、自分の机に戻って、それぞれの紙に、見出しを、書いた。
- 一枚目: 自分の Issue 一覧 (9件)
- 二枚目: 再委譲先の候補と、判断軸
- 三枚目: 年内必須 / 年明けでよい / 引き取り解除書きながら、桜子は、自分の手が、ほんの少しだけ、震えていることに、気づいた。けれど、震えながらも、紙の上で、見出しは、ちゃんと、並んだ。
十五時。鈴木の席へ、紙を、三枚、抱えて、向かった。
鈴木は、桜子の三枚の紙を、ゆっくり、読んだ。
二枚目の 再委譲先の候補と、判断軸 を、読みながら、軽く、うなずいた。三枚目の 引き取り解除 の欄を、しばらく、止まって、読んだ。
読み終えてから、鈴木は、コーヒーカップを、軽く、両手で、温めた。
「桜子さん、いいね、この三枚」
「あ、はい」
「中身の前に、まず、紙そのもの。三枚、整理してきた、ってことが、いいね」
「あの、すみません、三枚、わたしのほうが、抱えこんでた、っていう、結論なので」
「うん、そう」
鈴木は、笑わなかった。
「結論として、桜子さんの抱え込みでも、紙にして、持ってきてくれた、っていうのが、たぶん、リーダーの仕事のうちの、いちばんむずかしい部分だよ」
桜子は、自分の頬が、また、熱くなりかけるのを、奥歯で、止めた。
「ひとつだけ、聞いていい?」
「はい」
「九件のうち、桜子さんが、いま、年内に、自分の手で終えられる、と、自分の体感で思ってるのは、何件?」
桜子は、ゆっくり、紙の中を、見た。#219 のRunbook、#226 のメールテンプレ更新、#214 #215 #216 のIssueは、それぞれ、進捗バラバラ。#236 #240 は、十二月頭の小リリース束の残務。年内に、自分の手で、終えられる、と、自分の体感で、答えるなら。
「……三件、です。#219、#236、#240」
「うん。じゃ、残りの六件、それぞれの引き取り解除、または、年明け移送を、桜子さんの判断で、やろう」
「はい」
「#231、桜子さんが、やります って、言って、引き取った件。これ、断ってもいいよ。長谷川さんに、僕からも、フォロー入れる」
「……ありがとうございます」
「あと、桜子さん、ひとつ、覚えておいてね」
「はい」
「リーダーは、できる人、じゃないんだ」
「はい」
「再委譲を、判断できる人、なんだよね」
鈴木の声色は、いつもの穏やかさのまま、けれど、その一言の 判断 の、二文字は、桜子の胸の、ちょうど、まん中に、すとんと、置かれた。
Part C
シーン6 再委譲の三件
鈴木との二十分のあと、桜子は、自分の席に、戻った。
桜子は、Issueボードを、開き直して、九件のうち、三件を、再委譲する判断を、自分の手で、書きおろした。
1. #231: 抽出スクリプトバグ
→ 別チーム長谷川さんに、Slackで、引き取り解除を依頼。
理由: 年内に手が回らない見込みの根拠 (他Issueとの兼ね合い)。
鈴木さんからもフォロー予定
2. #220: UI調整
→ 年明け 1/10 復帰の早瀬さんに、正式に依頼。
先方納期は、年明け対応で先方了承済み (再確認のメール送付済み)
3. #226: メールテンプレ更新
→ 翔太の別件が一段落するまで保留。
鈴木が顧客窓口に、年内納期 → 1/6 送付に変更を一報Slackの、別チームの長谷川さん向けのDMに、桜子は、こう、書いた。
@mochizuki-sakurako: 長谷川さん、月曜は、わたし、`やります` と
お返事してしまったのですが、自分の Issue の年内残件を、
あらためて整理したところ、`#231` を、年内に、こちらで、
責任を持って、対応することが、難しい、と、判断しました。
急なお願いで、すみません。
鈴木さんから、別途、フォローいただけるとのことですが、
わたしからも、お詫びと、ご連絡を、させてください。
よろしくお願いいたします送信ボタンを、押す前に、桜子は、その文面を、もう一度、読み返した。書きながら、桜子は、月曜は、わたし、やります、とお返事してしまった の、〜してしまった の、半拍の自責が、相手にとって、たぶん、必要な情報ではない、と、気づいた。
桜子は、その一行を、
@mochizuki-sakurako: 長谷川さん、お忙しいところすみません。
月曜の朝礼で、`#231` を、わたしのほうで進めます、と
お伝えしましたが、自分の Issue の年内残件をあらためて
整理した結果、年内に責任を持って対応することが
難しい、と判断しました。
鈴木さんからも、別途、フォローを入れていただける予定ですが、
わたしからも、まず、お詫びと、ご連絡をさせてください。
よろしくお願いいたしますに、書き直した。
送信。
長谷川さんの返事は、十五分後に、来た。
@hasegawa-takeshi: 望月さん、ご連絡ありがとうございます。
こちらこそ、月曜の朝礼で、急に振ってしまって、すみませんでした。
判断、了解です。年明けに、別の形で、こちらで進めます。
良いお年を桜子は、しばらく、その短い返事の、良いお年を の四文字を、見ていた。
Issueボードの、Assignee: mochizuki-sakurako の数字が、九件から、六件に、減った。
画面の方が、桜子の目には、なぜか、よく、見えた。
Ending
シーン7 仕事納めの夜、メモ帳に書く一行
十二月二十九日。仕事納め。
退社後、桜子は、いつもの駅前のカフェに、寄った。
年内最終営業のはずだった。けれど、店主の女性は、いつもどおり、淡々と、ブレンドを、淹れてくれた。窓の外、街灯の下を、年内最後の出勤を終えた人たちが、軽く、酔った足取りで、歩いていた。
桜子は、メモ帳を、開いた。
火曜日のページの、はみ出した二行は、まだ、そのままだった。けれど、その下の、水曜日、木曜日のページは、ふだんの五行に、ちゃんと、戻っていた。
桜子は、木曜日の、いちばん下に、もう一行、書き足した。
2022/12/29 (木) 仕事納め
- 起きたこと:
Issue再委譲の3件、年内最終承認。
Issue 6件、年内中に、Done または、年明け持ち越し
- 覚えたこと:
- リーダーは、できる人、じゃない。
再委譲を、判断できる人、だった
- 自分の手の中の Issue 数を、まず、数える
- つかえているところ:
断る側の文章 (Slack DM) で、自責の半拍が、つい、出る
- 明日の最初の一手:
(年明け 1/4) Runbook整備 (#219) の本文ドラフト着手
- 今日の学び:
メモ帳の欄が、はみ出したら、Issue を、減らすほう、を、
まず、考える書き終えて、桜子は、しばらく、メモ帳を、眺めていた。
火曜日の、はみ出した二行を、桜子は、消さなかった。
はみ出した、という事実を、メモ帳の中に、残す。
その上で、はみ出さない側に、戻ってきた、という事実も、残す。
両方、残しておくほうが、たぶん、来年の桜子の役に、立つ気がした。
ブレンドの、最後のひとくちを、桜子は、ゆっくり、飲んだ。
窓の外、街灯の下に、雪、ではない、けれど、雪に近い、細い雨が、夜風に、のって、降りはじめていた。
来年の最初の出勤は、一月四日。
桜子は、メモ帳を、閉じて、鞄に、戻した。
鞄の中で、メモ帳が、火曜日の、はみ出した二行と、木曜日の、戻った五行を、同じ厚みで、抱えていた。
桜子は、桜色のキーホルダーを、指先で、ほんの一瞬だけ、握った。
来年も、また、誰かに、やります と、半秒で、答えてしまう日が、たぶん、ある。
その日も、ちゃんと、紙を、三枚、書こう、と、思った。
